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新井 一 | myDocTest

「臨床・研究・教育」に「優れた運営力」を備え「最高の医療」を追い求める指導者

vol.207

「臨床・研究・教育」に「優れた運営力」を備え「最高の医療」を追い求める指導者

新井 一

順天堂大学
学長

「小児を診る医師は成人もしっかり診なさい」

「佐藤先生はよく『小児を診る医師は、成人もしっかり診なさい』と言っていました」
その意味するところは「小児は成人となる」である。小児の医療機関では15歳までを診て、その後は“成人科”となる。だが人生はシームレスである。だから順天堂医院では、小児脳神経外科治療を小児科・思春期科と連携させ、リハビリテーション科や整形外科などとも協力して、成人後までシームレスな治療体制を敷いてきた。

小さな小児室は大きく育った。その軌跡と新井氏の順天堂大学での成長と、どこが重なるのだろうか。新井氏は、不思議なバランスを持つ男である。180㎝の上背だが、相手を威圧せず、むしろ誰をも慮る心遣いがある。その姿勢の良さは若い頃のスポーツゆえであるが、教授から病院長、医学部長、そして学長というリーダーとしての成長もあるだろう。語り口は経験ある医師として穏やかであり、話しやすい雰囲気があるが、自分の気持ちを表現するときには間髪入れず言い切る。きっぱりとしたところと、きめ細やかなところが同居する。その不思議な均衡はどこから来るのか。そこを探っていくと“人間 新井”が見えてきた。

産婦人科の父の仕事と三島由紀夫の死の狭間で

「きっぱり”とした口調は江戸っ子ゆえか、新井氏は、東京は神田の生まれだ。勤務医の父が産婦人科を開業した時、世田谷に引っ越した。記憶にある思い出は多摩川べりの土手から始まる。草むらを駆け回ってザリガニを取り、自転車で堤防沿いを走って河川敷のグラウンドに通った。巨人軍二軍の本拠地、多摩川グラウンドである。

「銭湯の下足の札はいつも3番でした」
野球少年の守備位置はサード、ヒーローは長嶋茂雄である。伸び伸びと育った子は、やがて産婦人科医である父を気にし始めた。夜も昼もない産科を母は快くは思っていなかったようだが、子は医師という職業を半ばすり込まれつつ、私立麻布中学校に進学した。「85点が優等賞です。中高通して一度取ったきりで、あとはずっと低空飛行でしたね」
そう謙遜するが、中学から高校にさしかかる頃の、医師という職業に向かわせる決定的な出来事が続いた。

1970年11月、授業をさぼって近所の食堂でテレビを観ていた時のことだ。高名な小説家が自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本省)で演説をしていた。三島事件である。この後、三島由紀夫は割腹自殺をする。
「どういう思考過程でああいうことが起こるのだろう」
作家の自死に至る行動から、人の死を考えさせられた。翌年秋には、通っていた麻布高校で公金横領事件に端を発するロックアウト、校長代行への退陣要求という機動隊まで出動した事件が起きた。
「半年ほど授業がありませんでした。モラルハザードを感じましたね」新井氏は産婦人科開業医の父の下で、生命の生まれる瞬間と接して育った。一方、多感な時期に死を目の当たりにする事件を見た。人が生まれて死ぬまでの間にあるのは、善く生きることであるはずだが、身近な教育者のモラルハザードにさらされた。生と死とモラルに揺らされて、医学部受験を決心した。

Profile

新井 一
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  • 1979年
    順天堂大学医学部 卒業
    順天堂大学医学部脳神経外科
  • 1981年
    米国NIH(国立衛生研究所)神経化学研究室
  • 1984年
    順天堂大学医学部脳神経外科 助手
  • 1987年
    自治医科大学第一生化学教室
  • 1988年
    順天堂大学医学部脳神経外科 講師
  • 2003年
    医療法人秀和会 秀和綜合病院 副院長
  • 1993年
    順天堂大学医学部脳神経外科 助教授
  • 1995年
    米国フロリダ大学脳神経外科
  • 2002年
    順天堂大学医学部脳神経外科 教授
  • 2008年
    順天堂大学医学部附属順天堂医院 院長
  • 2011年
    順天堂大学大学院医学研究科長・医学部長
  • 2016年
    順天堂大学 学長
資格
日本脳神経外科学会認定医

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