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家坂 義人 | myDocTest

拍動するハートに向かって疾走
カテーテルアブレーションの世界最高峰のマエストロ

vol.XXX

拍動するハートに向かって疾走
カテーテルアブレーションの世界最高峰のマエストロ

家坂 義人

総合病院 土浦協同病院
院長

三浦雄一郎氏の登頂成功 4度の手術を遠隔診断で支援

土浦協同病院の入口に初老の男が現れた。銀髪に浅黒く引き締まった顔、伸びた背筋で悠々と歩いて来た。従えるのはビデオカメラを肩に載せるカメラマンと、照明器具をかつぐ照明係である。「古びた病院に颯爽と現れてびっくりしました。その頃からずっと記録映像を撮っていたようです」男は三浦雄一郎氏、世界的な名声を誇るプロスキーヤー・登山家である。迎えたのは土浦協同病院循環器内科の家坂義人氏、高周波カテーテルアブレーションで世界のトップドクターである。

三浦氏は若い頃から持続性心房細動の持病があった。70歳でのエベレスト登山初挑戦(2003年)では、標高4000m付近で不整脈を発症し、人事不省になった。現地の山岳医に励まされて登頂したが、山頂は曇り、視界はゼロだった。どうしても頂から晴れ渡った景色を眺めてみたいという願望に駆られ、75歳での再登頂を決めた。だがその前に不整脈との戦いに勝たねばならなかった。

「一体どこで聞きつけたのか、手術してほしいと言われました」
帰国後、三浦氏は国内の心臓専門医を訪ねたが、どの医師からも「やめたほうがいい」と断られた。諦め切れずに渡米、子息の三浦豪太氏が学んだユタ大学附属病院の権威Roger A. Freedman医師に面会した。手術は可能だと言われたが、登山日から逆算すると日本で手術を受けざるを得ない。その権威が挙げた名が「Dr. Iesaka」だった。

「三浦さんは肥満体で高血糖、高血圧でボロボロでした。でも彼は別に健康体を望んでいるわけじゃない。彼には目指す所がある。細く長く生きたって何の意味があるのか。三浦さんにとってはそっちを取る方がつらい」
家坂氏は冒険に賭ける三浦氏の姿に共鳴して手術を快諾した。

2006年12月、持続性心房細動に対して電気的に不整脈を隔離するEEPVI(Extensive Encircling Pulmonary Vein Isolation=同側上下肺静一括拡大隔離術)を施術した。一番弟子である高橋淳氏(現・横須賀共済病院副院長)と共に開発した方法だ。電極先端が投げ縄状のラッソカテーテル2本を同側上下2本の肺静脈に挿入し、同側の上下肺静脈入口部周囲を円周状に一気に焼灼隔離する治療法である。現在では世界標準となり手術時間の大幅な短縮も実現した。翌2007年には心房細動治癒後に発生した多源性心房頻拍をターゲットに三浦氏にカテーテルアブレーションを実施した。

万全を期した2008年の再登頂では、現地から送信されるホルター心電計の心電図と心拍数データで土浦から家坂氏が遠隔診断をした。登頂は成功、しかし登山家はもう一度80歳での挑戦を決めた。

医師免許とキャリアを賭けた アブレーションは1万人以上に

本番前年の2012年秋、予備遠征中のヒマラヤ登山で、三浦氏は再び不整脈を発症した。国際山岳医の大城和恵氏の治療を得つつ下山し、土浦協同病院に直行。家坂氏は心臓に多数の異常興奮箇所を認め、期外収縮を対象としたアブレーションを実施した。期外収縮は10分の1以下となったが、それに安心した三浦氏はトレーニングを重ね過ぎて再び頻拍を感じた。挑戦までもう時間がない。家坂氏は三浦氏の心電図の波形に目を凝らした。電気生理の職人技の動体視力で波形を瞬間的に読み取り、不整脈の根源に当たりを付けていく。一瞬、波形に電気刺激の旋回が見えた。次に来る波形の予測をした。予測が当たってそれが来た。治療方法が決まった。

「前のアブレーション時に誘発した頻拍に、房室結節回帰性頻拍の波形があったのを思い出しました。それで誘発をしてみると案の定でした」
家坂氏から「よし!」というガッツポーズが出た。房室結節回帰性頻拍とは、心房から心室への刺激伝導路が二重になり、2つの伝導路間を電気刺激が旋回をして起こす頻拍である。片方の遅伝導路を焼き切って1つにして頻拍を防ぐ。翌年の1月15日に行われた再手術は成功、5月の三浦氏のエベレスト登頂にギリギリのタイミングであった。

「患者さんが人生で何を望んでいるか。その実現にどう協力できるか。波形が何ミリセカンドでどうしたっていう問題じゃないんです。見てその場で結論を出せ。時間ばかりかけて何もしないのは我慢がならない。僕も年を取りました(笑)」

家坂氏はカテーテルアブレーションにキャリアを賭け、医師免許を賭け、医道を疾走してきた。実績をこともなげに語る顔には少年のはにかみがある。敵対した権威たちに言葉を返すことなく、理論と実践で応戦した職人魂がある。自ら育てた循環器内科医を「皆教授になりやがって」と揶揄するのは教え子への深い愛である。全てを茶目っ気たっぷりにユーモアでくるむのが彼なりの美学だ。

家坂氏が立つ頂は、前院長の藤原秀臣氏以来の伝統である循環器内科のメッカ、土浦協同病院である。実施したカテーテルアブレーション症例で500例ごとに、共に仕事をしたその時々の医師、看護師、技師らと記念写真を撮る。1メートルを一患者とするなら、エベレストの標高8850メートルを超えて1万人に到達した。なぜ頂に登れたのか──それを解き明かす家坂氏の“登頂”までの半生を見ていこう。

Profile

家坂 義人
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  • 1974年
    東京医科歯科大学医学部 卒業
    東京厚生年金病院内科 研修医
  • 1976年
    米国ベイラー医科大学 留学
  • 1980年
    北里大学医学部 専任講師
  • 1982年
    北里大学医学部 助教授
  • 1985年
    腎臓ネットを開設し、日本腎臓学会承認
  • 1996~2010年
    医療法人秀和会 秀和綜合病院 副院長
  • 2005年
    東京医科歯科大学医学部 臨床教授
  • 2008年
    KDIGO理事、同アジア太平洋地区代表
    アジアCKD対策フォーラム議長
  • 2011年
    IMSグループ板橋中央総合病院 副院長
資格
日本内科学会認定内科医・指導医、日本腎臓学会指導医、日本透析医学会指導医、厚生労働省認定難病指定医、東京都身体障害者福祉法指定医(腎臓機能障害の診断)

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