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家坂 義人 | myDocTest

拍動するハートに向かって疾走
カテーテルアブレーションの世界最高峰のマエストロ

vol.XXX

拍動するハートに向かって疾走
カテーテルアブレーションの世界最高峰のマエストロ

家坂 義人

総合病院 土浦協同病院
院長

野球に魅せられた少年時代から東京医科歯科大学に入学

家坂少年は多摩川グラウンドに向かって走り出した。東京都大田区馬込の自宅から片道5㎞ほどである。小学校低学年には十分すぎる距離だ。持ち物は野球のグラブ一つ。土手に着くと巨人軍の選手が練習をしていた。名投手別所毅彦は健在であった。転がってきたボールを捕球して投げ返すと、別所から「坊や、ありがとう」と言われた。文字通り“巨人”もいた。
「土手の遠くから近づいてくる選手がいた。だんだん大きくなって、しまいにはなんだこれ!って」
当時野球選手だったジャイアント馬場であった。

学校でも野球中心である。毎朝授業前にミニテストがあったが、野球の朝練をしてさぼると先生は非常に怒り、大きな三角定規で家坂少年の頭をコツンと叩いた。家庭訪問で「こんな屈辱を味わわされた覚えはない」と教師は母に訴えた。ところが家坂少年が6年生となり、先生がちょうど定年を迎えた最後の通信簿で少年をこう総括した。「正直で素直でこんな良い子は私の教師生活の宝である」。少年は教えることの厳しさと温かさを胸に刷り込んだ。

理学部が第一志望だったが、国立二期校の東京医科歯科大学に合格。当時は東大紛争真っ盛りで、どこも荒廃していた。出席も取らなければロックアウトもあった。「高額だから」という理由で教科書はほとんど買わなかった。不勉強の学生は、解剖実習の最終日くらいは出席しようかと思って解剖室の扉を開くと……。
「もう全部の内臓がありませんでした」
周囲を笑わせる男である。薄っぺらい国試対策本1冊で医師となり、卒後から勉強をし始めたと笑うが、それは事実半分創作半分であろう。だがすぐに医療の本質に目覚めた。

毎晩当直でテキスト熟読 絶対に断らない医療を叩き込む

卒後は東京医科歯科大学医学部第二内科に入局希望だったが、クジ引きに敗れ、東京厚生年金病院(現JCHO東京新宿メディカルセンター)に内科研修医として着任した。共に学んだ研修医は昭和大学医学部卒で患者に優しい人格者だった。一方病院の先輩たちは「じゃあ」と言って研修医に当直を押し付けて帰っていく。それを恨むことなく、毎晩泊まり込む当直を勉強の機会にした。

「当直では診察を絶対に断らないと決めました。小児科も診ました。あんちょこを作って机のビニールの下に忍ばせて『キミは体重何キロ?』と患者に訊いて診断する。それでも、問題になることはありませんでしたね」

現場で断らない医療を自分に叩き込んだ。またその時の内科部長が文字通り人格者だった。後に副院長となる山根至二氏は東京大学医学部神経内科出身の勉強家で、心電図や不整脈のテキストを二人でむさぼり読む勉強会を毎朝開いた。循環器内科の知識がどんどん増えた。別の先輩医師は医療の本質を示してくれた。

治療はときに犠牲を伴う この教えこそ家坂氏の根幹

「その先輩は侵襲的検査を教えてくれました。血管造影やカテーテル治療です。足にカテーテルを詰まらせた経験もして、今ならとっくに免許取り消し(笑)。でもね、今の若い先生はそういう経験が無さ過ぎです。指導医に訊く前に自分で考えてやればいい」
臨床上の反作用も知った上で、体に有害かもしれないことを意識して、適用を決める。治療とはときに犠牲を伴うことでもある。この侵襲の教えは家坂氏の根幹をなしていく。

2年後、第二内科に帰局すると藤原秀臣氏(当時東京医科歯科大学医学部第二内科講師)らが心臓ペースメーカーの実験を重ねていた。偶然、その場にいた米国からの技術者が、家坂氏が愛読していた不整脈治療のテキストの著者がいる病院の職員であった。
「このようなことがきっかけとなって、マイアミへの留学が決まりました」
31歳の青年医師は自分で進路を決めると、電気生理を学ぶために米国フロリダ州のMiami Heart Instituteへ向かった。時は1980年、循環器内科治療の開花期に差し掛かっていた。

  • 米国NASEPでのポスタープレゼンテーション(1986年)

  • Miami Heart Instituteカテラボでカテ室ナースのジムとメアリーと共に(1981年)

  • 留学先のMiami Heart Institute、EP LabのDirectorのJohn Lister氏と(1980年)

  • フランスのNadir Saoudi氏の自宅へ招かれて(1984年)

Profile

家坂 義人
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  • 1974年
    東京医科歯科大学医学部 卒業
    東京厚生年金病院内科 研修医
  • 1976年
    米国ベイラー医科大学 留学
  • 1980年
    北里大学医学部 専任講師
  • 1982年
    北里大学医学部 助教授
  • 1985年
    腎臓ネットを開設し、日本腎臓学会承認
  • 1996~2010年
    医療法人秀和会 秀和綜合病院 副院長
  • 2005年
    東京医科歯科大学医学部 臨床教授
  • 2008年
    KDIGO理事、同アジア太平洋地区代表
    アジアCKD対策フォーラム議長
  • 2011年
    IMSグループ板橋中央総合病院 副院長
資格
日本内科学会認定内科医・指導医、日本腎臓学会指導医、日本透析医学会指導医、厚生労働省認定難病指定医、東京都身体障害者福祉法指定医(腎臓機能障害の診断)

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