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家坂 義人 | myDocTest

拍動するハートに向かって疾走
カテーテルアブレーションの世界最高峰のマエストロ

vol.XXX

拍動するハートに向かって疾走
カテーテルアブレーションの世界最高峰のマエストロ

家坂 義人

総合病院 土浦協同病院
院長

命を救う電気生理検査「誘発」 患者を一人失ったら「辞めよう」

米国では1970年代後半から超音波心エコーが普及し、心臓内をリアルタイムで描出していた。ICD(植込み型除細動器)も臨床に導入されつつあったが、不整脈治療は薬物とペースメーカーが主体で、心室頻拍や心室細動は手つかず、まだ心臓による突然死を防げなかった。
「そこで致死的な不整脈をわざわざ起こす『誘発』と出会いました」

師事したJohn Lister医師らと共に房室ブロック(心房から心室への電気的興奮が遅延または伝達されない症状)の研究をしていると「誘発」という電気生理検査に出会った。電気刺激で不整脈を発生させ、止めることができるという。
「止められなかったら患者さんは亡くなるし、合併症を起こす可能性もある。しかし診断をつけて治療をするためには、ここまでやらなきゃだめなんです」

留学時の成果は1編の心筋梗塞犬を用いた動物実験データの論文、その他3編の臨床論文にまとめたが、家坂氏は“研究室での好奇心”で終わらせることはなかった。2年の留学を経て帰国すると早速テストに入った。東京医科歯科大学のカテーテル室で胃の透視器械をセットし、電極カテーテルを患者に挿入する。人手が足りず医療機器メーカーの担当者が手伝ってくれた。

「僕が心室頻拍を起こすと機械屋さんがドン!と電気ショックで止める。反応を確認して心電図を記録し、不整脈の薬で治療する。患者さんを一人失ったら止めようと思っていました」
家坂氏の言う「止めよう」は「辞めよう」でもあった。

海外で一流誌に載る成果なのに「非人道的」と大バッシング

そこに本気を見たのは、当時フクダ電子でペースメーカーを扱っていた若林誠氏であった。医師免許を賭けて患者の心臓を救おうとする家坂氏に共鳴して手伝った。しかも彼は家坂氏が土浦協同病院に移る時に退職して独立した。家坂氏と共に研究を続けるために。
「誘発がなければ何も分からない。何も意味がないのです。許されないことでしたが、僕はそれまで米国で循環器の専門医とMEの人がいる場で何度も経験していましたから」

だがその成果を発表すると海外では一流誌に掲載されたが、国内では大きなバッシングを受けた。ある内科の権威から「君は医者だろう。そんな非人道的なことをしていいのか!」と糾弾された。多勢に無勢、味方は片手の指で折るほど。ある学会の帰途、航空機内である。前席から会話が漏れて後席に座る家坂氏まで届いた。
「家坂ってヤツをどうやって消しましょう」
某大学の教授たちだった。

家坂氏の試みは手順としては無謀であったかもしれない。だが新しい医療には必ず冒険があり、そこから創造が生まれる。偶然か必然か、若林氏の興した会社はDVxといい、DはDevelopment、VはVenture、xは未知、すなわち「未知の冒険開発会社」である。それが東証一部上場企業となったのは、彼らの活動を市場も患者も認めたからである。

余談だがMiami Heart Instituteへは、その後青沼和隆氏(筑波大学医学医療系循環器内科学教授)、野上昭彦氏(筑波大学不整脈学寄附講座教授)、古川哲史氏(東京医科歯科大学難治疾患研究所生体情報薬理学分野教授)ら日本の不整脈治療を担う人材が留学し、消すことのできない系譜が生まれた。

日本初のアブレーション成功 不整脈患者が全国から来院

誘発は不整脈の診断や機序の解明、重症度の評価、薬剤の判定に欠かせないものになっていく。だが家坂氏の関心は診断だけではなく治療にあった。米国では1982年に直流通電のブロック作成のカテーテル術、1983年に副伝導路のカテーテルアブレーションが成功。家坂氏も日本のパイオニアとして、1984年に日本初の直流通電カテーテルアブレーションを成功させた。

「患者さんは78歳、頻拍回路を2つと洞不全症候群を有する徐脈頻脈症候群でした。頻拍回路の一つは逆行性潜在性副伝導路による房室回帰性頻拍であり、もう一つは房室結節二重伝導路による房室結節回帰性頻拍でした。そこで左側潜在性副伝導路と房室結節アブレーションを行い、房室ブロックを作り、ペースメーカー植え込みを行いました」

頻回に頻脈とその後の徐脈による失神・めまいから、患者さんを解放することができた。手術は成功し患者は98歳まで生存した。ところが、再び重鎮からバッシングを受けた。
「当時は、生来の正常刺激伝導系を燃やすなんて、どんな権利があってできるんだ!と言われました」
直流通電は焼灼範囲のコントロールが難しく、心臓穿孔・心室細動・心原性ショックなどの合併症と背中合わせだったからだ。だが1985年、藤原秀臣氏(土浦協同病院前院長)の誘いで土浦協同病院に移ると不整脈治療を一気に加速させた。藤原氏は当時内科部長としてCCU開設、経皮的冠動脈形成術(PTCA)やペースメーカー植え込みを導入。冒険が安全にできる地盤があった。

「日本人2人目のブンデスリーガ・プレイヤーの尾崎加寿夫選手がふらっと来たのです」
再発性持続性心室頻拍だった。家坂氏の手術後、ドイツでのサッカープレーに復帰した。直流通電法は約300例実施し、1991年からはより安全な高周波アブレーションを導入。すると球界を代表する投手も現れた。
「江夏投手はふてくされたような顔をして、よくマウンドから降りてベンチに行ったでしょう。あれは上室頻拍症の発作でした」
江夏豊氏は若い頃に心臓発作を起こして以来、心臓に持病を持っていた。引退後に家坂氏の副伝導路アブレーションを受けて回復したが、1970年代にこの手技があれば彼の投手生命は延びていたかもしれない。

臨床を重ねる中で、心房頻拍の起源が心房中隔の房室結節-His束(心房と心室をつなぐ電気信号の通り道)にある通称「IESAKAAT」を発見し、1997年に診断基準と治療法を発表。さらに2002年には三浦氏に施術したEEPVIを開発したところ、不整脈患者が全国から押し寄せた。経営面でも大きな収益をもたらした。

放射線防護衣に「毘」の刺繍 モットーは「謙信」の百戦錬磨

「僕のモットーは上杉謙信の百戦百勝です。少し勝ったくらいで手を緩めてはいけない」
家坂氏は「毘」の文字を刺繍した放射線防護衣を来て手術をする。戦国の名武将が掲げた旗の「毘」の文字は毘沙門天、軍神から取られたという。家坂氏は何と戦ってきたのか? 従来の常識と? 権威達と? いずれもYESである。だが彼は、相手を正面から斬り込むことはせず、常に自省するタイプだ。彼の挑み方は「毘」という字から見えてくる。

毘には「そばについて助ける」という意味がある。患者に寄り添うことが彼の戦いなのだ。負けとは患者の死であるから、実験でも臨床でも、百戦やって百人を助けなければならない。それを胸に刻んでいるのだ。

うまくいったのは神のお陰 ヘマをするのは自分のせい

一筋縄では理解できない男が、もう一人挙げる人物はイタリア・ルネサンス期の芸術家、ミケランジェロである。
「ミケランジェロは『神の御心に導かれ、純白の大理石に、命の息吹を吹き込むとき、永遠の美が生まれ出る』と。自分が彫り上げたとは言っていません。これが凄いです」
ミケランジェロは存命中、大勢のローマ法王からのわがままな注文に応えた。気が進まないものもあったが、受けたからにはやり遂げる。得意な彫刻でなく絵画であろうと、たとえ目が見えなくなってもやり抜く。システィーナ礼拝堂の天井画を描く際に絵具が目に落ちて視力を損なった。ミケランジェロにとり大理石の中にイデアがあったように、家坂氏にも心臓が刻む波形にイデアがあった。それを切り出すのは、循環器の職人たる自分の仕事である。

我が実績を評してこう言う。
「うまくいったのは神様がいたから、ヘマは自分のせいです」
彼は「こんな自分が神様のまね事をしていいのか?」と常に自問してきた。誰の命も落とさずにやってこれたのは神の御心ゆえと。神とは誘発試験の機会を授け、刺激伝導路を灼くことを許してくれた患者たちであった。

だからこそ家坂氏は新しいクライオアブレーションに期待を広げる。直径28ミリのバルーンをマイナス50~60度に冷やして肺静脈入口部周囲を壊死させる手技は、手術時間が短く、侵襲も少ないので高齢者に優しい。
「患者さんに治せませんねと伝えると『もうだめなのか』と涙を流すお年寄りがいます。だから『やりましょう』と命を賭けるんです」

3・11に屋外退去の陣頭指揮 どの患者も皆、平等である

2011年3月11日、東日本大震災の日、藤原院長をはじめとする幹部は皆、学会に出ていた。居残りした当時副院長であった家坂氏は、地震後の対応に追われた。
「どう患者を守るかが問題でした。僕は『患者を全員、病院の建物から下ろせ』って命じたんです。昼間だったから製薬会社の人も、付き添いの家族も病院に一緒にいた。皆で階段を使って助け合って未熟児もお年寄りも全員病院から屋外退去させました」

旧病院は余震が強ければ崩壊の危険がある。ハンドマイクで怒鳴って誘導した。同僚から「家坂さん、決断力あるんですね」と言われると、彼は持ち前の美学で返答した。
「かみさんが入院しているから置いていくわけにいかないでしょう(笑)」
当時家坂氏の妻が末期の大腸がんで入院していたが、置いていくわけにはいかないのは、どの患者も同じである。この病院で育てられた家坂氏にそれ以外の答えはなかった。

新病院が2016年に土浦市おおつ野に開設され、循環器系のアンギオ室が6室、手術室も16室、地上ヘリポートも備えた。新病院の周辺道路はかすみがうらマラソンコースで、家坂氏はマラソンランナーでもある。
「つくばマラソンも完走しましたし、かすみがうらマラソンはちょうどこの病院の下あたりを走るんです」

「Run Forrest Run」の主人公に自分を重ね全力疾走 患者の心臓に刻まれた熱き記憶

家坂氏の執務室には「Run Forrest Run」というプレートがある。映画『フォレスト・ガンプ』で、主人公のフォレストが石を投げられ、いじめっ子から逃げるシーンがある。矯正具をつけているので、不自由な足を引きずりながら逃げる。だが後の恋人になるジェニーが「走るのよフォレスト! 走って!」と叫ぶと、矯正具が外れて猛スピードで走れた。医師として走ってきた自分をそこに重ねる。

「マラソンに参加して3~4㎞走ると今一番つらいことが心に浮かぶ。もう5㎞走るとその解決策が浮かんでくる。『ああそれだ!』と思って良い気持ちになる。でもさらに10㎞走った頃にはすっかり忘れています。浮かんできた解決策を全部覚えていれば大発見もあったのに(笑)」

忘れても大丈夫。なぜなら沿道には1万人を超える彼が手術をした患者たちが旗を振る。誰もが自分の胸の拍動に自信を持っている。家坂氏が思いついた熱き記憶は、全て彼らの心臓に一つひとつ刻まれているのだ。2万人、3万人へとゴールはまだ先にある。

誰もが均しく受けられる医療に
違いがあってはなりません

2004年11月16日朝、オランダ・アムステルダム中心部にあるRenaissance Amsterdam Hotelのミーティングルーム「Koepelzaal」には、欧米を中心に世界中から60人のエキスパートが集まっていた。腎臓内科医、循環器専門医、臨床病理医、小児腎臓科医、糖尿病専門医らの集う会議のタイトルは「KDIGO-Controversies Conference」と銘打った。KDIGOは2003年に設立された非営利団体で、Kidney Disease; Improving Global Outcomes(世界腎臓病予後改善イニシアチブ)の略称である。

2004年11月16日朝、オランダ・アムステルダム中心部にあるRenaissance Amsterdam Hotelのミーティングルーム「Koepelzaal」には、欧米を中心に世界中から60人のエキスパートが集まっていた。腎臓内科医、循環器専門医、臨床病理医、小児腎臓科医、糖尿病専門医らの集う会議のタイトルは「KDIGO-Controversies Conference」と銘打った。KDIGOは2003年に設立された非営利団体で、Kidney Disease; Improving Global Outcomes(世界腎臓病予後改善イニシアチブ)の略称である。

2004年11月16日朝、オランダ・アムステルダム中心部にあるRenaissance Amsterdam Hotelのミーティングルーム「Koepelzaal」には、欧米を中心に世界中から60人のエキスパートが集まっていた。

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    Stryerの生化学教科書に論文が掲載された記念に撮影(1989年)

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    Stryerの生化学教科書に論文が掲載された記念に撮影(1989年)

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    Stryerの生化学教科書に論文が掲載された記念に撮影(1989年)

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    Stryerの生化学教科書に論文が掲載された記念に撮影(1989年)

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    Stryerの生化学教科書に論文が掲載された記念に撮影(1989年)

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    Stryerの生化学教科書に論文が掲載された記念に撮影(1989年)

Profile

家坂 義人
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  • 1974年
    東京医科歯科大学医学部 卒業
    東京厚生年金病院内科 研修医
  • 1976年
    米国ベイラー医科大学 留学
  • 1980年
    北里大学医学部 専任講師
  • 1982年
    北里大学医学部 助教授
  • 1985年
    腎臓ネットを開設し、日本腎臓学会承認
  • 1996~2010年
    医療法人秀和会 秀和綜合病院 副院長
  • 2005年
    東京医科歯科大学医学部 臨床教授
  • 2008年
    KDIGO理事、同アジア太平洋地区代表
    アジアCKD対策フォーラム議長
  • 2011年
    IMSグループ板橋中央総合病院 副院長
資格
日本内科学会認定内科医・指導医、日本腎臓学会指導医、日本透析医学会指導医、厚生労働省認定難病指定医、東京都身体障害者福祉法指定医(腎臓機能障害の診断)

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