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永田 泉 | myDocTest

医学史探訪の街道を駆け
病院再建を成し遂げた改革人

vol.XXX

医学史探訪の街道を駆け
病院再建を成し遂げた改革人

永田 泉

小倉記念病院
院長

※この記事は●●●●●000号より転載しております。

殉教者の道をひた走る脳神経外科医

悠々たる大村湾は、人の往来も出来事も全てをのみ込んで、ただ波を打ち寄せていた。湾の南端の時津港で、ランニングシューズのひもを結び直し、鍛えた足を屈伸させたのは長崎大学医学部脳神経外科教授(当時)永田泉氏である。30代から始めたジョギングは、長崎に来てから歴史に興味を持つと旧街道や史跡への“探訪ラン”になった。

「古い地図や写真のコピーを持って走ります」
フルマラソンや100㎞ウォークを完歩する永田氏にとって、時津から長崎市内まで十数㎞は短距離だ。だがその道には消えない記憶がある。1597年の冬、処刑日の朝に彼杵から時津に着いたのは「二十六聖人」、改宗を拒んだキリシタンたち、その殉教ルートである。国道206号を逸れて長崎街道に入る。船を留める「ともづな石跡」は、かつてここが港であったことを示す。茶屋跡を過ぎると急な坂道となる。再び国道を横切って橋を渡り、今にも落ちそうな奇岩「さばくさらかし岩」が迫る道をくぐると、険しい峠道である。打坂峠の名の由来は、急な道ゆえ牛や馬が進まなくなるので鞭を打ったからといわれる。二十六聖人も打たれたのだろうか。長崎市内に入って、やがてゴルゴダの丘に似ていると聖人たち自身が選び、磔にされた西坂の丘に着いた。そこは小倉に始まる長崎街道の終点でもある。
「長崎の町は端から端まで狭いですが、興味は尽きません」

永田氏は京都大学と国立循環器病センターで、脳血管障害の“直達手術の雄”の名声を築いた。脳腫瘍手術、動脈瘤摘出やクリッピングなど広く手掛け、頸動脈内膜剝離術では世界的な権威である。だがその真骨頂は「ハイブリッドな脳神経治療」にある。
「得意な手技にこだわらず、歩留まりのいい脳血管治療を目指します」

開頭術にこだわらず、カテーテルも最新機器も使う。長崎大学教授へ「誰の推薦状もなく」選任されたのは、その開かれた姿勢ゆえもある。以来10年長崎大学で臨床と教育に専心し、副院長も兼任し、定年後は長崎県内の病院への院長職も内定していた。だが2013年のある日、京大の宮本亨教授(脳神経外科)からの電話がそのルートを変えた。小倉記念病院の院長職の要請であった。

「永田先生、引き受けてもらえませんか」。永田氏は30分考えてから、京大に断りの電話を返した。「長崎の人に不義理になるので、せっかくですがお断りします」。数日後、再び電話がかかってきた。今度は同級生の坂田隆造氏(当時京都大学医学部心臓血管外科教授)からであった。再度の要請を受け、これは引き受けざるを得ないなと観念した。

日本の医学史に照らして火中の栗を拾う決意

「なんであんなところに行くの?とさんざん言われました(笑)」
当時の小倉記念病院は混乱を極めていた。100年を超える歴史ある当院を燦然と輝かせたのが、1980年代からPTCA(経皮的冠動脈形成術)で、「心臓カテーテル治療の神様」と呼ばれた延吉正清氏である。その手技は日本の心臓治療を変えた。だが経営が全社連から一般財団法人へ変わり、新病院へ移転新築の後、延吉院長派と反対派の軋轢が増し、理事会も二分された。収益力も低下していた。ゆえに誰もが「あえて火中の栗を拾うのか」と言った。そう言わない人も、のみ込んだ言葉が口元に表れていた。だが永田氏は長崎大学に頭を下げ、定年1年前の退職を申し入れた。

「脳外科にも飽きてきたし(笑)、違ったことするのもいいかなと思ったのです」
病院の強みである循環器内科を軸に、経営さえ立て直せば輝きを取り戻せると考えた。だが実際に着任すると、循環器内科医の4割が辞めていった。組織は前院長派と反院長派で二分され、自信を喪失している職員も多かった。

どこから手をつけるか。就任した2014年、永田氏は月刊誌「脳神経外科ジャーナル」(日本脳神経外科コングレス刊)に『オランダ商館医アントニウス・ボードイン』の一文を寄せている。

“長崎出島にオランダ商館が設立されて以来63名の医師が駐在し、わが国に西洋医学を紹介した”という書き出しで永田氏が紹介するのは、日本に西洋医学の礎を築いたオランダ海軍医のポンペ・ファン・メールデルフォールトではなく、その後任の陸軍医、アントニウス・ボードインである。
長崎奉行との確執で辞職したポンペの後継者としてボードインは、ポンペが設立した養生所を「精得館」と名を改め、基礎自然科学に力を入れた。日本人に必要なのは化学や薬学であると考えて、近代医学を広める組織づくりと教育に着手したのだ。要となる人材として化学者クーンラート・ハラタマを迎え、大阪で薬学研究の舎密局を作らせた。それは後の京大や国立衛生試験場の基となった。さらにボードインは、明治維新の戦で荒廃した上野の山を公園にして、東京府民に安らぎを与えることも進言した。

どうやらポンペは延吉氏であり、ボードインは永田氏である。永田氏は日本の医学史に照らして過去を見て、現在と近未来を変えようと考えたのだ。結果を簡単に記しておくと、収支は1年で黒字に転換し、その後も病院は増収・増益となっている。病院組織も透明化され自由な雰囲気が醸成された。
「座右の銘なんてありません。行き当たりばったりですから」

劇的なるものを避け、何も起こらない手術を好む。成し遂げたことをドラマチックに語ろうとしない。それが控えめや謙遜でなく、固い信念からにじみでてくる─それが永田泉という男である。彼の歩んだ道を少年時代に遡ろう。

京大で自動車部 無試験の脳外科を選ぶ

「『勉強しろ、勉強しろ』って毎日のように言われましてね」
父は煙たい存在であった。代々医師の家系ではなく、福岡県久留米市で開業医となった父は3人の子を医師にと思った。長男の永田氏は「ぼぉーっとした子」だったというが、父への反抗心がそうさせていたのかもしれない。だが利発な子は、福岡学芸大学附属久留米小学校・中学校へ進み、さらに「親から離れたくて」全寮制のラ・サール高等学校(鹿児島)を選んだ。

好んで打ち込んだことは2つある。一つはスポーツで、中学時代はバスケット、ラ・サール高校からラグビーを始めた。
「僕らの一つ上の先輩が創部したばかりで弱かった。そこで鹿児島県トップの大口高校からコーチを招いて猛練習しました」
ポジションはロック。ラインアウトのボールをつかみ、スクラムの底を支え、黙々と働き続ける攻守の要である。後の仕事ぶりと重なるところがある。ラグビーは大学2年まで続けたが、その後の4年間は「自動車部」に打ち込んだ。

「本当は工学部に行こうと思っていたんです」
クルマ好きである。愛読書は「自動車工学」と「カーグラフィック」。前者は自動車整備と構造技術の雑誌で、毎号エンジン部品やパーツが表紙を飾った(2016年で休刊)。後者は1962年創刊で、モータースポーツや試乗記、長期試乗テストが売りである。なにしろ中学生時代から運転をしていたほどだ(注:すでに時効)。

「大学の全学の自動車部でキャプテンをして、整備大会では全国3位になりました」
故障診断テストでは、どこか壊されたエンジンが並べられ、制限時間内にそれを見つけて直す。もちろん筆記試験もあった。優勝大学には中古自動車が贈呈された。それも解体して技術習得に励んだのかと聞くと、こう切り返された。
「いや解体はね、借りてきたレンタカーをバラして翌朝に組み上げて返すんです(笑)」

自動車部に打ち込んだのは京大医学部である。地頭は良くても、大学受験の手前まで勉強は全て一夜漬け。試験後はきれいサッパリ忘れて蓄積もない。しかも数学が苦手だった。いかにして難関に合格できたのか?
「ある日閃いたんです、高校の数学は考えるものではなく暗記ものだと」
数学は暗記ものとは何か。数学の問題を解くためには「解法」がある。そこに「公式」がある。この2つが「ステップ」になる。これらを組み合わせることを「暗記する」と問題が解けるという。さらにそれは数学にとどまらないという。

「あらゆることに通じます。手当たり次第にちょこちょこっと覚えていくと、ある日突然、全体が見える瞬間がある」
点と点の知識がつながり、一つの大きな知識となる─これは永田氏の医師人生を支える力となっていく。だがやはり試験は苦手で、卒業時に入局試験のある外科は避け、無試験の脳外科を選んだ。もちろんそれだけではなかった。
「手先の器用さを活かせるのと、神秘的なところもあるので…」
永田青年は創造的な暗記術と工学知識の武器を携え、脳神経外科に挑んだ。

北野病院での研修 開頭術の雄に導かれて

京大など国立大学に脳神経外科教室が開講され、臨床で手術用顕微鏡が用いられ始めたのは1960年代半ばである。永田氏はそれからおよそ10年後の1975年に入局し、翌1976年に大阪の北野病院脳神経外科に派遣された。当時はどんな研修医ぶりだったのか。

「北野病院にはジャンケンで決めて行きました(笑)」
一介の研修医ゆえに本格的手術はさせてもらえず、術前準備に追われ、主治医として患者の術後の世話をするだけであったが、北野病院脳神経外科は当時には珍しく学閥がなく多くの大学から優秀な先生が集まっており大いに感化された。入局以来の同僚である山形専氏(現倉敷中央病院院長)とは、その後京大の大学院や脳神経外科、国立循環器病センターで20年ほど共に働くことになるが、山形氏が優秀な論文を書き海外留学もする一方で、永田氏は平々凡々で論文作成も渋々だったと述懐する。

「ただぼぉーっとしてました(笑)」
どうやらそう語る時は「目標が定まらず鬱屈している」という意味のようである。だが実際には、山形氏とモンロー孔閉塞やくも膜下出血症例などの共著論文も書いている。論文の指導役は、当時北野病院で脳神経外科部長をしていた菊池晴彦氏である。

「菊池先生との出会いが血管障害の外科治療の道を歩むきっかけでした」
後に京大で第三代脳神経外科教授となる菊池氏は、脳神経外科に初めてマイクロサージャリーを取り入れ、ガンマナイフも導入した先駆けである。顕微鏡下のドライフィールドで、臨床の神経学と解剖学を統合した外科的治療を目指した。
「菊池先生は技術があるので、動脈瘤が出血し始めるまでギリギリ待ってクリップをかけるとか、盛り上がりをわざと作る(笑)。どんなことがあっても大丈夫という自信があるからできることですが…」

開頭術の雄である菊池氏は、血管障害治療では「手術にこだわるな」という基本姿勢があった。脳動脈瘤の血栓形成や増大の機序を探り、さまざまな治療成績と問題点を知り、その上で治療法を選べと諭した。
「自分の得意技に凝り固まらず、確立された治療と新しい治療を並行して導入しなさいと言われました」

当直は眠るな、重症患者のカルテは全て読め、起き得ることに備えろという訓戒も胸に刻んだ。菊池氏が永田氏に授けたのが脳神経外科の「幅」とすれば、縦の「深さ」を授けたのは、菊池氏の一番弟子の(故)唐澤淳氏であった。

国立循環器病センターで包括的治療姿勢を学ぶ

永田氏は北野病院から京大に帰局して、大学院で学位を取得後、国立循環器病センターへ派遣されると、再び菊池氏(当時脳神経外科部長)の薫陶を授かる。そこで見た手術が頸動脈内膜剝離術(CEA)である。
「唐澤淳先生が時々CEAの手術をされていたんです。当時は日本ではまだ頸動脈狭窄症は少なかったのですが、増加すると見越して学びました」

動脈硬化が進むと頸動脈分岐部の血管壁にコレステロールが沈着してプラークができる。ここに狭窄が生じて血液が流れにくくなるのが頸動脈狭窄症で、プラークを除去する手法がCEAである。
「何の盛り上がりもなく、破綻もなく、短時間で歩留まりのいい手術を心掛けました」

頸動脈血流遮断や塞栓症による虚血性の合併症や、縫合部出血など創部合併症を防ぐために、丁寧なプラーク剝離と確実な血管縫合を行い、再狭窄が想定される場合はパッチを当てる。女性や高齢者、高度狭窄などケースによって手術や治療を選択する。後年(2008年)に認可されるステント留置術(CAS)の導入も始めた。この包括的な治療姿勢が、頸動脈狭窄症のオピニオンリーダーとなる原動力となった。

永田氏の背に唐澤氏の姿が重なる。唐澤氏は外科手術だけでなく、1980年代にガイドワイヤーに沿わせてカテーテルを挿入するSeldinger法の血管造影をいち早く実践した、日本の血管内治療のパイオニアでもある。既存の方法より穿刺針が細く、静脈の損傷が小さい。だが当時のデバイスのレベルではなかなか結果が伴わず、こう語ったという。「血管内治療は若手の君たちの仕事だ」。唐澤氏に進取の気性と懐の深さを教わった。

脳神経治療の全貌を見た 他の領域にも適応できる

医師として大成するとはどういうことなのだろうか。専門で第一人者となる、基礎研究で業績を上げる、“神の手”を持つ─。さまざまな道があろうが、永田氏のそれは「全体をつかむ」ことだった。国立循環器病センターへ2度目に赴任し、脳血管外科部長となった時のことだ。
「菊池先生の手術を見て、唐澤先生から伝授された手技を実践していました。それまでは失敗したらどうしようと思っていましたが、一つひとつを潰して積み重ね続けて、自信がついたと思えた時、突然全体が見えるようになりました」

「一つひとつ」とは何だろうか。それを探るために、最初の国循から京大講師を経て、2度目の国循までの期間(1980年代後半から2000年前後)の永田氏の論文(筆頭やそれに準ずるもの)や記事を挙げてみよう。

※この記事は●●●●●000号より転載しております。

Profile

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永田 泉
(みょうじ・なまえ)


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  • 1976年
    北里大学医学部 卒業
  • 1981年
    米国ベイラー医科大学 留学
  • 1985年
    北里大学医学部 専任講師
  • 1999年
    北里大学医学部 助教授
  • 2000年
    腎臓ネットを開設し、日本腎臓学会承認
  • 2003年
    医療法人秀和会 秀和綜合病院 副院長
  • 2005年
    東京医科歯科大学医学部 臨床教授
  • 2008年
    KDIGO理事、同アジア太平洋地区代表
    アジアCKD対策フォーラム議長
  • 2011年
    IMSグループ板橋中央総合病院 副院長
資格
日本内科学会認定内科医・指導医、日本腎臓学会指導医、日本透析医学会指導医、厚生労働省認定難病指定医、東京都身体障害者福祉法指定医(腎臓機能障害の診断)

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